本質は、流派によって違うのか?

ヨガや呼吸、瞑想、マインドフルネスなど、どれも多様な流派・スタイル・団体などが世界中には存在し、それぞれに独自のプログラム・基本概念・階級(級・位・段)などを持っています。内容は似通っているようで、微妙に違い、ポーズ一つとっても入り方や手足の配置が違ったり、中には自分のところでだけ世界で最高の特別な奥義を極めることができるというようなものも存在します。

僕自身は、ヨガであればアヌサラヨガ(アイアンガーヨガから派生)を筆頭に、アシュタンガ、シヴァナンダ、ヴィンヤサ、パワーヨガなど、瞑想であれば色々な国でヨガ瞑想・ヴィッパサナ瞑想を中心に受けてきました。どのスタイルもそれぞれに新鮮で、色々な気づきを得ることもあり、それらは素晴らしい経験となりました。

一つのスタイルだけとことん最後までやればいいのかも知れませんが、僕は安岡正篤先生の「特定のものに固執することはよくない。真理から外れてしまう」という言葉を胸に刻んでいたからでしょうか、特定のスタイルを最後まで・・・ということはできませんでした。当然、何をするにも徹底的に打ち込む必要はありますから不器用なりに必死でどれもやルわけですが、6ヶ月、1年と経過してくるごとに、一定水準以上の世界に踏み込んでくると、必ずと言っていいほど何か心に引っかかるもの多く、どうしても一つだけをやり遂げることができなかったのです。

当時はその引っかかりの理由が分かりませんでしたが、今はハッキリと分かります。それは安岡先生を始めとした東洋哲学上の偉人たちの学びを続けてきたからこその引っかかりでした。そのままやり続けていてはいけないよ、小さな世界にとどまるな、自然界の原理原則に立ち返りなさい、もっと大きな視点に立って真理を捉えなさい・・・ということでした。偉人たちは辛苦難行の上に多くを経験してきて深く体得していたのですね。

これが理解できたのは、皆さんによくお話ししている六甲山中に入り始めたことがキッカケでした。当初は気象条件がどんどん変化していく大自然の山奥で、一人でいると怖いこともたくさんありましたが、6ヶ月、1年と経つごとによく自然の動植物を観察し、その生き様を理解できるようになり、気象の変化も繊細に察知できるようにもなってきました。街ナカの便利な生活に安住していた僕には山中深くの世界は新鮮であり、鮮烈であり、大きく感動しました!

それらを通じて痛感したのが、それら自然界の動植物には流派・スタイル・階級などは一切なく、すべてが宇宙の原理原則・真理に素直に従い、刻々と変化し続ける環境の中で、自身の持つ潜在力をフルに発揮し、自由自在に、逞しく、瞬間瞬間に全生命を打ち込んで素晴らしく輝いているということでした。

身体の動かし方はこういう風にすれば・・・、呼吸はこういう具合にすれば・・・、瞑想は当初ここに意識をおいてカウントを・・・など、いわゆるノウハウ・ハウツーなんていうものは、一切自然界の生き物たちには存在しませんが、それでこそ生命は素晴らしい輝きを見せています。

また彼らには肩こり・腰痛・妄想・迷信・迷い・精神病なんて一切ない・・・これぞまさしく「俺は地球(宇宙)で堂々と暮らしているんだ!小さな世界に固執なんてちっぽけだぞ!」という感じでして、大きく心を打たれて痛感するしかなかったのです。自分の愚かさ・浅はかさを・・・。

この経験により私は完全に、特定の流派やスタイル、呼吸法、瞑想法などに固執することから離れることができ、特定のものからしか得ることができないような本質的なもの・真理などはこの世に存在しないことも深く理解しました。

今の私のヨガや瞑想、マインドフルネス、トレーニングのすべてのお手本は自然界の生き物たちであり、宇宙の真理(身体を司る原理原則)です。特に六甲山中では頻繁にイノシシに出会うことがあるため、彼らから学ぶことが多くあります。

自分を深く知りたいという方、真理を探究している方、まずは身近な自然に触れることから始めていきましょう。街ナカの便利な生活に安住したままでは分からないこといっぱいありますから!